● 距離が掴めずに悶える
(執事十代) written by
緑豆
上品で静かな空気に満ちた屋敷の中を、十代は背筋を伸ばして歩く。 十代はこれから、主を起こしに行くところだ。 ノックをして、返事がないことを確かめてから、身体を滑り込ませる。
「ヨハン様。お目覚めください。ヨハン様。」
十代の主は目覚めが良くない。こうして十代が起こしに来なければ、いつまでだって眠っているだろう。
「ヨハン様。朝ですよ。」
「…十代か。」
「はい。十代です。」
それは毎朝のやり取り。 ヨハンは十代の名を呼び、十代はそれに答える。
「ヨハン様。お放しください。」
「十代の匂いだ。」
首筋に顔を埋めてくる主を、十代はやんわりと引き剥がした。これもいつものこと。 ヨハンが身体を起こした事を確認して、十代は洋服の準備に取り掛かる。 今日は空気が少し冷たいから、用意していた服ではなく、少し生地の厚い服にした方がいいだろう。 クローゼットから洋服を見繕うと、ヨハンに着せていった。
「なぁ、十代。俺の身体さ。随分逞しくなったと思わないか?」
「はい。とても綺麗に筋肉がお付きになっています。」
「だろう?」
満足そうに笑うヨハンに微笑み返しながら、十代はヨハンの靴の紐を結ぶ。 十代の主は着痩せするタイプで、服を着てしまうと立派な筋肉は存在感を無くす。だが、着替えを手伝っている十代は、そのことをよく知っていた。
「さぁ、参りましょう。お食事の準備が出来ています。」
「ああ。…って、十代忘れてるぜ?」
「なにをでしょう?」
「おはようのキス。」
自らの頬を指して、ヨハンは悪戯っぽく笑っている。 それを見て、十代は苦笑すると、頬へと口付けを送った。
「おはようございます。」
「ああ。おはよう。」
ヨハンは十代がしたように口付けを返すと、にっこりと微笑んだ。
先に行っててくれと言うヨハンの言葉に従い、十代は廊下へと出る。 食堂へと向かう十代の足取りは部屋に来たときと同じようだったが、その歩調はどんどん激しくなった。
「う…ぉお…。」
呻く十代を見ていぶかしげに見てくるものも居たが、声の主が十代だと分かると、皆はすぐにそれぞれの仕事に戻る。 皆に見られないのをいい事に、十代は走った。走って、食堂側の柱の陰に座り込むと、十代は悶絶した。
「近い!近すぎる!何なんだよあれ!!!あれは俺を試しているのか?!そうなのか?!!! 俺ってヨハン付きの執事だよな?!執事と主ってああいうことするのか?!俺が無知なだけ?! 毎朝のあれは寝ぼけているだけ…だよな!俺の匂いって何?俺くさい?! なんで擦り寄って来るんだよ!お、お、お、お、お、お、お、おはようのキスって男同士でもするのか?執事とならするのか? あんな…あんな綺麗な顔が側にあって…それにふ、ふ、ふ、触れっ!!!!!」
十代の混乱は止まらない。 何となく格好良さそうだからと目指した執事という職業。それなりに勉強して、そして、運よくアンデルセン家の次期当主であるヨハンに仕えることが出来た。 だが、元々平民中の平民である十代には理解できない事が多々あった。 まず最初に、あんなに綺麗な人間を見たことはなかった。 フリルが似合う男が本当に存在するだなんて思わなかった。金持ち特有の優雅さとでも言うのだろうか。 そんなものを纏っているヨハンは、本当に何でもよく似合った。おかげで毎朝の服選びには苦労しないのだが、あまりにも綺麗すぎて直視できない。 そして次に、スキンシップの量だ。 ヨハンは気軽に十代に触れてくる。 苦労することなくひだまりにいる人間だからだろうか。ヨハンは驚くほどに無防備だ。 拒まれる事など想像していないかのごとく触れてくるし、触れさせようとする。あのたくましい筋肉に触れさせられた事だってある。 あのときは、脳みそが溶けるかと思った。喜びのあまりに抱きしめられた事だってある。
そして、今日はついにおはようのキスと来た。何とか理性を保ったものの、気を緩めれば形のいい唇に吸い寄せられるところだった。 誘うようにうっすらと開いていた唇に視線を奪われていた事を、ヨハンに気づかれていないだろうか。 頭の中に先ほど見たヨハンの唇と、十代の中に確固たるイメージとしてあるヨハンが入り混じり、十代の頭はパンクしそうだった。 だが、そんな十代の耳に、足音が聞こえてくる。
「御用事はもうよろしいのですか?」
柱の影から出て主にそう問いかければ、主は笑みを浮かべる。
「ああ。さっき十代に触れたから早く済んだよ。」
「お役に立てたなら何よりです。では、こちらへどうぞ。今日の朝食は…」
平然と朝食の説明をしながら、十代は内心パニックに陥っていた。 ヨハンの用事とは、何て事はない。朝勃ちの処理だ。ヨハンは今日も見事に勃起していた 。そのままの状態で十代に着替えを手伝わせるのだから、本当に理解が出来ない。 そして、何より理解できないのは先ほどの言葉。 「十代に触れたから早く済んだ。」どういう意味だ。触れたから?触れて何が変わる? いや、そもそも考えていいのか?これは、自分の執事に対するブラックジョークか? 主の食事の間もずっと悶々としていた十代に、食事が終わり席を立った主が耳元で囁く。
「今度、十代をイかせたいな。」
「……え゛。」
思わず顔を見返すが、ヨハンは天使のような無垢な表情をしていた。 聴き間違いかと思い、失礼を承知で聞き返そうとした十代の言葉を、ヨハンは唇に指を当てることで止めた。 指の温もりは十代が動くことを許さない。
「今晩。楽しみにしてるよ。」
ウインクと共に言われた言葉に、十代は立ち竦む事しかできなかった。
END
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