・tune the rainbow






「明日、何時の飛行機?」

「夕方の便だから…そうだな、昼には出る。昼メシはここで食っていい?
十代の料理またしばらく食べれなくなるの、名残惜しいからさ」

「ん、じゃあ適当になんか作るわ」
「おー、頼む」



という会話が交わされたのが昨日。
ヨハンが次の日遅めに目を覚ますと、その言葉通りテーブルには昼食が用意されていた。

どれもこれもヨハンが好きな和食ばかりで、
しばらく日本にこれないであろうヨハンへの気遣いが垣間見られる。
ヨハンは寝ぼけながらも料理から視線を部屋へぐるっと一周させて、ため息をついた。


「……………またか」


何分か前に起きてそれを用意していたであろう人物の姿がない。
しかしそんなことも初めてではなく、ヨハンが慌てることはなかった。
自分が帰国する日は決まって、十代はいなくなる。
もちろん空港まで見送ってほしいなどと愁傷な願望はないが、何度迎えても、どこか物悲しい瞬間だった。

料理はまだ温かい。
すぐに辺りを探せばいるのかもしれない。
けどそれをしないのは……十代の意図をヨハンが汲んでいるからだ。

ヨハンはシャワーを浴び、大切に料理を食べると食器を片付け、スーツを着てトランクを持った。
合鍵でマンションの扉を閉め…足早に去る。








「ヨハン、もう飛行機乗ったかな…」


ヨハンが家を出て何時間か後、十代は自分の住む街が一望できる場所に来ていた。
山の中腹まで遊歩道になっていて、その終点は展望台になっている。

十代はその場所が気に入っていた。
平日で人も少なく、十代はベンチに腰をかけぼんやりと空を見た。
鳥の影のような飛行機が雲の合間を縫って上昇している。


ヨハン、ちゃんと温めて食ったかなぁ……
一応冷めたままでもあまり味の落ちないものを作ったつもりだけど…


ヨハンが去った街は少しくすんで見える。
いつものことだ。
どこか窮屈で……息苦しい。

それでも一ヵ所に留まっているのは……ほんの少しの、可能性だ。


約束を持たない二人の。


長い旅をした後、十代はそういう場所が必要だということに気付いた。
自分のいる場所を相手が知っていてくれれば…知らないよりは、会える確率が上がる。

自分が会いたい時と、相手が会いたいと思った時に。
そんな微かなものにすがりつく…自分でも笑ってしまうくらい、馬鹿馬鹿しい理由だった。


抜けるような空色。
高い、高い青。
雲が雄大に行き交う視界いっぱいのスクリーン。

少し汗ばむ爽やかな五月が終わり、もうすぐ梅雨が来る。
最近の天候は不安定気味。

しかし晴れでも雨でもヨハンといたこの数日間、何をしていても楽しかった。
楽しいだけではない。
そこはかとなく流れている幸福感に、十代はふいに涙が出そうになる。


もう何年になるだろうか…ヨハンを愛しているのは。

いつから好きだったかなんて覚えてない。
劇的な瞬間があったわけでもなく、ある日、気付いたのだ。

嗚呼、愛してる。
ただ愛している、この人を。

何物にも代え難い、と………。


愛と同時に苦しみが生まれ、十代は戸惑った。
試練や困難を跳ね返す強さを持ちながら、十代は失うという恐怖には滅法弱かった。

彼が辿った足跡を見れば容易に想像できるが、その中で特に重要なのはヨハンも一度、失っているということだ。
物理的なものだったにしろ、その時の喪失感は十代の強いトラウマとなっている。

『いっそすべて断ち切って、また旅に出ようか』

何度思ったか知れない。
ふらふら考えは揺れ、嫉妬しないように心を殺し、ヨハンとすごせる僅かな時間だけを頼りに生活してきた。
迷いながらも結局ここに留まっているということは、そういうことなんだろう。
自分にとってヨハンと同じ時間を持つことは、苦しみを耐える価値がある。
それが答えだ…

わかっていても、自信がない。
幸せだと感じるたび、失う怖さに背中が冷える。
いつ投げ出してしまうのか…現にこうして、ヨハンと別れる瞬間から逃げ出してきているというのに…

落としてしまっていた視線を上げると、西から黒い雲が流れていた。
真っ黒ではなく、太陽の光に透けて煌めいている部分もある。
いつしか頭上にも影を落とすそれは街にしとしとと雨をもたらした。
しかし空は明るいまま。
通り雨だろう。幸いこの場所は屋根があるから濡れることはない。

十代は鼻先に雨の匂いを感じながらベンチに手を付き、
ヨハンのフライトに影響がなければいいけど、とため息をついた。


「あーあ。傘、持ってきてないや。しばらくここにいるか」

雨音の中でもはっきり聞こえた声。
十代が驚いて振り返ると、そこには今頃空の上にいるはずの人が立っていた。


「…………………」

ヨハンは言葉を失ったままの十代の隣に座ると、ネクタイを緩め、足を組んだ。

「ヨハン………帰らなかったのか………」

十代は独り言のようにつぶやき、気まずさのあまりヨハンの顔を見れないでいた。
今まで何度も考えていたはずだ。
なぜ別れの時にいなくなるのか、問われたときの言い訳を…
いくつかの安っぽい文句はヨハンを目の前にするとどれも役立ちそうになく、十代は観念して押し黙っていた。

雨は次第に強さを増し、雲の隙間からまだらに光が漏れて街をでこぼこに照らす。
不安定な景色。
まるで自分のようだと、十代は自嘲気味に笑った。


「…………大げさな誓いはしない。十代がそういうの苦手だって知ってるから」

「………………?」

「ただ、一緒にいようぜ?シンプルに…。
俺は十代に嫌いって言われてもずっと好きだから、安心して逃げていいんだぜ」

「ヨハン……」

「今みたいに十代の涙を指で拭える距離にいられれば、それだけで」

目尻に溜まった雫をヨハンはすくい、微笑んだ。

「俺は……」

「返事はいい。そのかわり……キスしようぜ?」

「ん…」

雨が二人を隠すように白く、打ちつける。

ヨハンと十代は長いキスを一つした。
ただ口を合わせただけの。
舌を一ミリも動かさず、最初は目を閉じ、その内に見詰め合ったまま唇を重ねていた。
濡れた舌先だけで、相手を感じる。


本当はヨハンが言うよりもずっと、自分はヨハンのことが好きなわけだけれども、
十代は訂正しないでおいた。

たった少しの自惚れで、また少し強くなれる。


二人は手を繋いだまま、雨が止むまで寄り添っていた。




「……………虹だ」


「ああ、虹だな」







つかのまの虹…
きっと君への架け橋になるだろう










fin.











 

 
































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